SSTR2023

SSTR旅・冒険・交流シンポジウム「情熱は全てを超えて行く」開催レポート

SSTR2023の2日目となる5月21日(日)、午前10時から羽咋市にある「宇宙科学博物館 コスモアイル羽咋」において、「情熱はすべてを超えて行く」と題した交流シンポジウムを開催しました。

こちらは石川県が開催している「能登ふるさと博」との連携企画。

今回のゲストにお迎えしたのは、命に係わる重い病気や身体の障害を乗り越えながら世界を旅するライダーの皆さんです。

青木 拓磨
(レーサー)
シール エミコ
(自転車冒険家)
西山 克哉
(パラリンピアン)

 
風間深志
(オートバイ冒険家)
多聞恵美
(司会進行)
 

人の心を旅へと突き動かす「情熱の根源」とは何か?

聴く人の人生に何かを示唆するお話の数々。

今回は会場でのお話の内容を、ダイジェストでお伝えしていきます。

情熱は全てを超えて行く

日 時:5月21日(日)10:00~12:00(9:30~開場)
会 場:宇宙科学博物館 コスモアイル羽咋


主催者・ご来賓挨拶

風間深志より開催者挨拶

 

今日は、障がいを持ったライダーに旅のお話を伺うシンポジウムです。

初回から、SSTRの中では多様性を大切にしてきました。

SSTRにも、障がいをもったライダーは多く、今後もそうしたライダーの参加を増やしていきたい。

やはり、いろいろな人がチャレンジできる環境を作っていきたいと思います。

ですので、是非今日のお話を楽しんでいってください。

 


羽咋市 岸 博一 市長よりご挨拶

 

SSTRでたくさんの方々にお越しいただきまして
市を代表しましてお礼申し上げます。

今回は、情熱はすべてを超えて行くということで、市としましても様々な立場の方をお迎えできる町にしていきます。
能登の地震にもご協力いただけるということでありがとうございます。

千里浜も以前の半分の広さになってしまいましたが、今後もより多くの方々をお迎えできるよう、頑張っていきます。ありがとうございました。

 


宝達志水町   寳達 典久 町長よりご挨拶

 

今日は障害を持ったライダーにお話を聞くということで、最初伺ったときは「どういうお話になるんだろう?」と思っていました。

でも、「情熱はすべてを超えて行く」というテーマだと聞いて、なるほどと合点がいきました。

近年、パラスポーツなども盛んになってきています。
宝達志水町では今後も町として、いろいろな人々の挑戦を応援してまいります。

今日はありがとうございました。

 


ハプニングは旅のエッセンス 青木 拓磨~

多 聞: 青木拓磨さんはなんと、東京から自走で駆けつけてくれたんです。

ゴール会場には青木拓磨氏・シールエミコ氏・西山克哉氏がバイクで登場。

 

会 場: 拍 手

青 木: 実は僕、バイクの免許は持っていないんです。

 今から25年前、障がいを持ってしまったときに、「あなたは乗れないですよね」と取り上げられてしまったんですよ。

 なので今日はカンナムという前2輪のトライクに乗ってきました。

 最初の話で僕は新幹線で行ってバイクは風間さんが運んでくれるというお話だったんですが、『それではゴールしたライダーたちと気持ちの共有感が薄くなってしまうな』と感じて、自走で来ることにしたんです。

 車いすなどの装具はサポートで運んでもらったんですが、なんと途中で車いすがパンクしているのに気づいて、焦りましたがあちこちタイヤを持っているお店を探して、なんとか同じサイズのタイヤを持っている自転車屋さんが見つかって修理できました。

 それが一件落着したと思ったら、今度はカンナムのハンドル周りにセットしていたはずのスマホが、いつの間にかどこにいってしまうという事件が発生。

 それをまた友達と一緒に探して探して…

 そうしたらあったんですよ。道の真ん中に落ちていて、よく踏まれずに手元に戻ってきたなと、まぁそんなドラマもあったわけです。

きっとそういう思いをされながらゴールにたどり着いたという方もいらっしゃるんでしょうねえ。

風 間: 以前番組の取材か何かで元GPライダーの中野信矢君とバイクで走ったら、すごく慎重に運転するから驚いたんだよね。

 レーサーだからもっと飛ばすのかと思っていたので、その辺の話を聞いたんだけど、「GPライダーはすぐに救急車が駆けつけてくれる環境で走っているから、クローズド(サーキット)では思い切り走れるけど、一般公道は怖い」って言うんです。

 だから、危険を知る人というのは、きっとそういう心構えができているんだね。

青 木: そうですね、リスクとの付き合い方というか、僕もそれはよくわかります。


夢、そして愛の力で ~シール・エミコ~

 エミコ: 私はかつて、バイク誌の「エミコを捜せ!」の企画でピンクの750ライダーとしてされ、日本の各地をバイクで旅していました。

今日着ているツナギは当時のものなんですよ。

はじめは日本を旅していたのですが、旅するうちに自然の魅力に取りつかれていき、『もっといろんな景色を見てみたい』という思いから、世界を旅するようになったんです。

オーストラリアをツーリングしていたある日、自転車で世界一周を目指していたスティーヴ(夫)と出会いました。

これをきっかけに、私も自転車に乗り換えて一緒に世界を旅することにしたんです。


 いろんなところに行って美味しいものを食べたりできる時もあったけれど、雨や雪の中を走るのは本当につらかった。
でもそういう辛さを二人で乗り越えていくのは、自分にとって一番幸せな時間なんです。

 そんな風に自転車での二人旅をしていたのですが、ゴールを目指していたパキスタンでガンを発症してしまいまいた。

人は高地にいくと、白血球数が減少するものなのですが、現地はまさにそういった場所でしたので、がんの進行がものすごく早かったんです。

大使館に相談すると帰国して入院することを勧められて、私たちはその夜に成田に向かい、そこから闘病が始まりました。

その後、私は末期がんを2度経験していて、骨盤の中の臓器もすべて摘出してしまいました。

そうした闘病生活は22年間にも及び、この間に私は4回の手術を受けました。

もちろん、その中には鬱々とした日々もありましたが、「これを乗り越えれば、また2人で旅に出ていろいろな体験をする未来が待っている」という思いを忘れずにいて、だからこそ耐えてこられたのだと思います。

そうして長い闘病に耐えた結果、医師から「がん治療は卒業して良い」といわれるようになりました。

会 場; 拍手

風 間: やっぱり、エミコさんの人柄というか、ポジティブな生き方が病魔の克服に導いてくれたんだね。


気持ちが開いたその時に~西山 克哉~

西 山: かつて私はスタントマンとし活躍していたけれど、ビルの窓ふきをしているとき、7階から落ちてしまい、腰椎はぐちゃぐちゃになってしまったんです。

大腿骨も粉砕骨折で、痛み止めも効かず、起きたら気絶、起きたら気絶を繰り返す日が何日も続いていました。

切断の危機にあった下半身は、ほとんど動かなくなってしまったんですね。

けれども、神様が遺してくれたのか、左の足首だけは動くんですよ。

不全麻ひなのですが、足は部分的に動く。だからバイクの乗ることができるんですね。

ケガをしてしばらくは、やるせなくて周囲の人に辛くあたってしまったこともありました。

そんな中でも、静かに話を聴いてくれた友達がいて、ある日彼に「どうしよう…」と、本心を打ち明けることができたんです。

この時を境に、『自分の中に煮えたぎっていた黒い気持ちに支配されることなく、新たな自分を開拓するために頑張らなくては』という気持ちになれたんです。

ここから真剣にリハビリに励んだのはもちろん、身体の仕組みについても積極的に学んで、身体の残存機能を活かす方法を見出していき、パラリンピックでのセーリングや⾃転⾞競技への挑戦、さらには、第⼀回 SSTR にも出走して完⾛を果たすことができるようになりました。

 

風 間: 自分も脚が動かなくなったとき、鬱になった。

たぶんここに集まっている人たちも、そういった心境を乗り越えた経験をもっている人だと思うんです。

そんな時は、僕の周りを子どもが駆けていくのを見ると「いいなぁ」と思ったりもしました。

やっぱり『人ってそうやって比較の中で生きているんだなって』と感じたんです。

(会場のモニターに、西山さんが颯爽とバイクで駆け抜けるシーンが映し出され、会場から拍手が沸き起こる。)

 


SSTR2023から社会への提言

青 山: 日本では放映されないけれど、実は海外で行われるモトGPでは、本戦の後に障害を持ったライダーたちのレースがあるんですよ。

半身不随の人、足や腕の無い人が元気にレースをしているんです。

ただ、これを日本でやるのは難しいと思いますね。

でも、日本では弟の治親がパラモトライダーの活動SSP(サイドスタンドプロジェクト)をやっています。

ここには『自分はもう、一生バイクに乗れないし、バイクに乗りたいと言い出すのさえ迷惑をかけそうだ。』と思っている人もいっぱい集まってくるんですが、SSPに参加した人々は「本当にやってよかった」と人生を取り戻したように感動して帰っていくんです。

日本のメーカーは「このイベントで更にケガをしたら?死んでしまったらどうする?」と積極的ではないけれども、国連の障がい者憲章には、「障害を持った人に壁を設けないこと」ということが謳われています。

だから、僕はこの活動をもっと進めていきたいと思っています。

やっぱりそこには「障がい者自身の遠慮」というのがあるんだと思うんです。障害を持っているから遠慮しなきゃっていうのは違うと思うし、むしろ声を上げなきゃいけないと思います。

風 間: そうなんだ、そういう話がしたかった! 障がい者はもっと声を上げるべきだと思う。

僕が入院しているとき、周りの人を見て思ったんだけど、足が変な方を向いてしまっている人や、車いすの人もすごく元気でポジティブな人がいた。
『障がいって何だろう、健常ってどういうことだろう?』そう思ったとき、やっぱり『気持ちが元気なことが一番なんだ』と思ったし、そういう人たちに教えられた気持ちになった。

…今日はね、ここに1台の車いすを持ってきたんだ。

これは障がい者の人たちとキリマンジャロを登頂した時のもので、特別なものなんだよ。

これに乗っていたのは下半身に障害がある人だったが、自分の力で登ると気合を入れていたんだ。

だけど、途中で足を支える車いすのパーツが壊れてしまって前に進めなくなった。

そこで、車いすのパーツを変更することになったの。

こうやってパーツを変えると、リアカーのようにして人に引っ張ってもらうことができる。

この状態でポーターの人に引っ張って行ってもらうことになったんだ。

そうしたら、その人は自分の力で登れなくなったという屈辱を感じたようなんだ。

「絶対に自分の力で登りたい」ってね。

けれども、結局は40人のポーターたちと一緒に頂上に登った。本当に感動してみんなで泣いていた。

やっぱり、こういうのが社会の目指すべきところなんだと思う。

つまり、差し伸べる手は差し伸べようよ、差し伸べられた手はちゃんとその手を取って、一緒に歩んでいこうよ。

そういうことを見てほしくて、この車いすを持ってきたんだ。

やっぱり、「共に歩む」というのが大事なんだよ。


”バリアフリー”は誰目線? ~多聞 恵美・青木 拓磨~

多 聞: 私からもいいですか?

今、私は0歳児を育てているんですが、その中で思うことがあります。

例えば公共の施設のトイレで、良かれと思って子ども用のいすを置いてくれていたりするんですが、そこにいすがあることで、ドアのカギが子どもの手に届くようになってしまうんです。

…何が起こるかわかりますよね。

そういうことが障害を持つ人たちの周りにもよくあるのではないかと思ったんですよ。

青 山: 僕にもそういう経験があります。以前コロナ禍で陰性だったけど隔離されなきゃいけない状況があって、その時に「バリアフリー」といわれたホテルに行くことになったんだけれども、そこは車いすの人がベッドに移れるような作りになっていなかったんです。

つまり、「バリアフリー」そう謳うことは簡単なんだけど、使う人の目線で造られていないということがよくある。
やはり風間さんがおっしゃったように、一緒に考える「ともに歩む」ということがとても大切なんですね。


こうして「全てを超える情熱の力」、「そして障がい者目線から見た社会」そして、「共に歩む社会の在り方」など、社会を生きるすべての人に具体的な提言を示し、シンポジウムのトークセッションは終了しました。

この後は御尋常太鼓の荘厳な演奏があり、じゃんけん大会で盛り上がったのちに閉会を迎えました。

石川県無形文化財指定「御尋常太鼓」

じゃんけん大会の模様

 

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